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故丸山康策さんが遺してくれたもの

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村山半牧をはじめとした三条文人や郷土史、さらに漢学、句作、篆刻(てんこく)に長じた三条市元町、丸山康策さんが18日、71歳で亡くなった。ここ数年、体調を崩しがちだったとは聞いていた。トレードマークのベレー帽姿はもう見られない。

オイラの丸山さんとの付き合いは10年足らず。それも、ここ数年は疎遠だったので丸山さんを語る、というほど知っているわけじゃない。丸山さんは、まさに知る人ぞ知る存在。本来なら学術関係などで地元のいろいろな団体に首を突っ込んでいいはずだが、表に出ることを嫌った。知る限りでは、三条市歴史民俗産業資料館の友の会と三条市歴史資料調査研究同好会くらいだろうか。

知識の宝庫のような人だった。専門分野はもちろんのこと、意外に新しい話題にも明るい。何事も常識では判断せず、自分の物差しで考えた。それは結果として周囲には非常識に映ることもあったが、それゆえに常識や経験をより所とする年長者とは一線を画した。

丸山さんと知り合っていきなり議論になった。テーマは“川上野球の功罪”。オイラは投げ、打つ、走るといったパワーこそ野球の醍醐味であり、策をろうする川上野球は姑息(こそく)と持論を展開。対して丸山さんは川上野球の戦略にこそ野球の妙味があると。もちろん結論は出るわけはない。

時に度を超して辛辣な物言いが身上の丸山さん。野球論争もあってか、丸山さんのオイラを見る目は鼻から批判的だった。「大学に行ってそんなことも知らんのかね」と、からかわれたことがある。丸山さんの言い方はさておき、オイラが知らなかったのは事実。恥じ入るべきはこちら側にあるのは明白。「コノヤロー」と心で思うだけで、歯ぎしりするばかり。知識の量、質においては丸山さんの足元にも及ばなかった。

その後、思いがけず丸山さんと作業を共にすることがあった。作業が終わると、丸山さんの見る目が変わった。少なくとも及第点はもらえたようで、手放しで喜んでくれた。その後は批判的などころか、進んで知識を提供してくれた。

思い返せば、一緒に作業していたとき、丸山さんに自分を認めさせてやる、見返してやるという意地が常に頭の隅にあった。それだけにほめられたときは、素直にうれしかった。これを境に野球論争のわだかまりは消え、考え方に違いがあっても論争が楽しめるまでになった。質問するようなふりをして、実はオイラの知識を試しているときも含めて。

改めて丸山さんの存在に感謝した。自分が相手を認めることで、相手は認められたと喜ぶ。そうなるには、相手より圧倒的に優位であることが条件だ。自問自答する。果たしてオイラはいつか、誰かに対して丸山さんのような役回りを演じることができるのだろうか。天国でこのコラムを丸山さんは、「言葉の使い方を間違っとるよ」「そういうことを中国では…」とぶつぶつ言っているに違いない。

投稿者 masatosato : 2002年01月22日 11:57

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