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五輪サッカー、野球の男子日本代表の悲愴感

北京五輪の男子サッカー、野球の日本代表の試合には、不思議と観戦しようという気持ちにならなかった。どの試合も腰を据えてみることはなく、見なかった試合の方がずっと多い。ちょっと見ていると気分が悪いというか、不愉快になってくる。なぜだろうと自問自答した。それは、日本代表に“みなぎる?”悲愴感というのが、結論だ。

ここで、漢字変換していて初めて気づいたことがある。「ひそう」を変換すると「悲愴」だけでなく、「悲壮」もあった。ベートーベンのピアノソナタは「悲愴」。変換辞書にある意味を見ると、「悲しい」というのは共通だが、「悲愴」は「悲しくも痛ましい」とあり、類語として「悲痛」や「悲傷」を充てる。対して「悲壮」は「悲しくも勇ましい」とある。ニュアンスは正反対に近い。「悲愴」では悲しみに打ちひしがれ、「悲壮」にはそこから立ち上がるという感じを受ける。

話を戻すと、五輪の男子サッカー、野球の日本代表からは、戦う前から「悲愴感」が漂っていた。サッカーは強豪国までオーバーエージ枠を使う時代になっているのに、日本はすったもんだの末、オーバーエージはなし。それでも予選突破に死角がないとでも思っていたのだろうか。野球では、金メダルでなければメダルはいらないとまで言い放った星野監督。

そこにあるのは「悲愴感」ばかりで、加えて良くも悪くも精神論好きの日本人が十八番にしていたはずのチームワーク、連帯感が希薄で、大ざっぱに言えば「やる気」が見えてこない。テレビ観戦していてもゲームが面白くないのだから仕方ない。

一方、女子サッカーとソフトボールの日本代表。こちらは最初からほとんどの試合をテレビ観戦した。単純に試合がおもしろかった。女子サッカーでは、悲願のメダルを目指し、なでしこジャパンは休むことなくピッチを駆け回った。ソフトボールは次回の五輪種目からはずされ、日本にとっては金メダル獲得のラストチャンスとなるの可能性が高いなか、上野投手の熱投が呼び込んだ悲願達成。いずれも悲愴感はなく、心身ともに充実した戦いぶりだった。

スポーツは、「結果がすべてではない」ということを教えてくれた。仮に女子サッカーが予選落ちしようとも、ソフトボールで決勝で敗れたとしても、健闘をたたえる気持ちに変わりはなかった。それに引き換え、男子は…。さぞや不完全燃焼で帰国したことだろう。

投稿者 masatosato : 2008年08月26日 06:46

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