<<2010年11月 |
メイン
スポンサードリンク
2010年12月22日
【小耳聞き耳】捧武さんとの思い出
20日に急逝したアマチュア写真家の捧武さん=燕市中央通4=。遠い記憶をたどれば、初めて捧さんに会ったのは20年以上も前。写真家としてではなく、燕市のソフトボールの関係で、確かチーム「藤進会」の何周年とかでタオルを作ったなどといった取材で伺ったときと思う。
再会したのは、2001年春の燕ふれあい文化祭が最初だっただろうか。それから友人を通じて写真集『かやぶきと生きる』の編集作業を頼まれ、2003年3月に出版。それ以降の写真集の編集を手伝い、出版を記念した作品展や捧さんが会長を務めた地元写真グループ「PHOTO風音」の作品展の案内はがきのデザイン制作をしたりと付き合いは続いた。
写真集編集作業は無償で手伝ったが、打ち合わせなどのたびに食事をおごってくれた。出版記念展が終わると、かかわった人たちを旅館でごちそうに誘ってくれた。そういう人だった。姉が嫁ぐとき、捧さんから打ってもらった布団を嫁入り道具に用意したこともあとになってわかり、さらに親しみを感じた。
22日の通夜を前に21日夜、式場に飾る捧さんの遺影を選びに、捧さんの家をたずねた。捧さんの家を訪問したことは、数えるほどしかないが、居間に上がらせてもらったのは初めて。それ以前は、アトリエともいえる作業場か、捧さんが営む布団店の店内だった。
捧さんが写る写真を広げ、そのなかから約30枚を選んだ。8年前、捧さんの家の作業場でモノクロ写真を広げ、捧さんと友人と3人で写真集『かやぶきと生きる』に収録する作品を選んでいたときのことを思い出した。それが今は遺影を選んでいるという状況が悔しかった。
いつかは必ず訪れることとはわかっていても、やっぱりこういう日が来たのかと現実を目の当たりにして、つらい。2005年、写真集『秋山庄太郎と新潟』出版を記念した祝賀会であいさつに立った捧さん。「わたしも72歳になりまして、あと…男性の平均寿命が80前ですから…」と話したところで涙があふれ、声を詰まらせた。ずっと早くに亡くなった捧さんの師匠格だった大久保英夫さんのことなどを思い出したらしい。そんな捧さんも逝き、今度はこっちが泣く番だ。
(佐藤雅人)
![]()
投稿者 masatosato | カテゴリー:きょうの一言 | トラックバック (0)
2010年12月21日
【小耳聞き耳】捧武さんは感謝の人だった
捧武さんが20日、急逝した。77歳だった。驚きと悲しみで相当、動揺した。10年ほど前から頼まれて、捧さんの作品展や捧さんが代表する地元の写真グループ「PHOTO風音」のグループ展の案内はがきのデザインを制作した。
来年1月4日から31日まで富士フォトギャラリー新潟=新潟市中央区紫竹山2=で開かれる秋山庄太郎写真芸術協会会員展<新潟巡回展>捧武「かやぶきと生きる」が開かれる。PHOTO 風音のメンバーでもある友人を介して、今回も制作を頼まれた。
500枚くらいの印刷だったが、印刷を頼んだことのある人ならわかるだろう。1,000枚にしても料金は大差ない。そこで提案した。案内はがきとしてだけじゃなく、ポストカードとして部屋に飾ったりしてもらえるように、片側は前面に裁ち落としで文字を入れず写真だけにしようと。さらに同じ版に違う写真と組み合わせて割り付ければ、同じ料金で2種類のポストカードができ、作品展後もプレゼントして人に配りやすいのではと提案したら、すんなりOKになった。
こちらから何かを提案して捧さんが首を横に振ることはなかった。全幅の信頼を寄せてくれた。おそらく、これはほとんどの人に対してそうだったと思う。任されたんだから、その分、しっかり頑張らなければならないと自分でハードを上げる。首をかしげるような仕事をする人もいたが、捧さんは感謝こそすれ、怒ったりしない。「まあ、これはこれで、おんもしぇねっかね」と大きな声で笑ってすますような人だった。
話は戻るが、今回のあんないはがきの制作を頼まれたのは先月末。どうしても今月半ばまでに間に合わせたいということで、制作を急いだ。と言っても片面の制作なのでどうということはない。ただ、会場周辺の略図はホームページにビットマップデータがあったので、最初はそれを配置したが、やっぱりクオリティーが落ちるし、捧さんに恥はかかせられないと、イラストレーターで作り直した。
印刷が完了して先週の初めに納品で間に合った。じゃあ、次は新潟の作品展へ取材に行く腹づもりでいたが、そんな矢先の訃報だった。取る者も取りあえず捧さんの自宅へ向かい、家族の話を聞き、手を合わせた。
ことしに入ってから捧さんは杖をもたないと歩くのが難しくなり、最近は疲れるとその場に5分、10分とへたり込むことがあったと言う。そう長くは持ちこたえることはできないだろうと家族にもそれなりの覚悟はあっただろうが、前日までふだんと何もかわりがなかっただけに家族の驚きはいかばかりか。
話は戻るが、病状が見るたびに悪化していて長くはないだろうと覚悟していたものの、一月の作品展に向けて順調に動いていると思っていただけに、びっくりだ。
昔気質と言えばそれまでが、親切されたことにはきちんとお返しをお礼をしないと気がすまず、作品展が終わると会場撤収後の食事や反省会でごちそうをふるまってくれることも。とにかく周囲にいるさまざまな人に感謝していた。そういう人だからいろいろな人が捧さんの周りに集まってきたといえる。
![]()
投稿者 masatosato | カテゴリー:きょうの一言 | トラックバック (0)
2010年12月19日
【小耳聞き耳】物産センターがなくなった?
19日、リニューアルオープンした燕三条駅観光物産センター「燕三条Wing」。夕方、もう一度、行ってみた。午前中の喧騒とは一転、すっかり落ち着いた雰囲気になっていて、スペースをゆったりとった、くつろげる空間になっていることをあらためて実感した。
物産センターを出て帰ろうとすると、年配の男性に声をかけられた。「金物を売っている所はなくなったんですか?」。物産センターが無くなり、新しい施設ができたと思っているようだった。数は少ないが、奥で売っていると答えると、足早に物産センターへ向かった。
慌てているようすだった。わざわざ金物を売っている所がないかと人に尋ねるくらいだ。土産に物産センターで金物を買おうと思ったのに、あてがはずれたと動揺していたのだろうか。
目当ての金物を買えたかどうかはわからない。あちらを立てればこちらが立たず。今回の物産センターのリニューアルは正常進化に間違いないが、万人を満足させられるわけでもない。
![]()
投稿者 masatosato | カテゴリー:きょうの一言 | トラックバック (0)
【小耳聞き耳】ナンバーの謎が明らかに!
ついにその謎が明らかに!…が、想定内の大したことのない結末だったことは前置きしなければなるまい(笑)。三条市がデザインを公募したオリジナルナンバープレートの採用デザインのナンバーが「1111」や「1234」ではなく、「三条市 い 2045」であった問題をケンオー・ドットコムは追及してきた。
「2045」は語呂合わせかとネットで調べたが、「フレスコ」や「プレイ死後」ではおかしい。しかも、応募されたデザインに描かれていたナンバーは「1234」で、それを印刷会社にデザイン修正などで外注して、完成した画像データのナンバーが、なぜか「2045」に改ざんされていたことが明らかに。
さらにツイッターで「『い』からし川で20時45分」と解読する人がいれば、メールでは「五十嵐郷じゃないの?」という匿名メールまで届いた。ダ・ヴィンチ・コードならぬ三条・コードはますます深遠な謎に包まれて…ということはなかった。
選考委員会で印刷会社へ出すときに、先頭の数字が「1」では左右のスペースが広く、バランスを見にくいということで、「2」に変更。それ以降の数字もとくにそれ以上の意味はなかったのこと。以上、お粗末でした!。
![]()
投稿者 masatosato | カテゴリー:きょうの一言 | トラックバック (0)
2010年12月17日
【小耳聞き耳】カレーラーメン食べて百点満点
17日、三条市・ポケットパーク整備実行委員会の新潟大学大学院生が6号ポケットパークの整備を国定勇人市長に対してプレゼンテーションした。
春に今年度の事業がスタートし、5月29にまちあるきに参加したことを説明した大学院生。「僕たち三条、何回か来たことあるんですけど、こうやってゆっくりと眺めて歩くってことは初めてなので、いろんな発見があっておもしろかったなと思います」に、かぶせるようにして国定市長のツッコミ。「カレーラーメンは食べましたか?」。
大学院生はさらにかぶせるように「カレーラーメン、食べました。おいしかったです」と即答すると。「あー、すばらしい。百点満点ですね」と国定市長も上機嫌。「カレーラーメンの歌」のCDリリースで空前のカレーラーメンブームが到来するなか、国定市長の頭のなかでも「カレーラーメン、カレーラーメン…」のリフレインが鳴りやまない!。
■三条市・ポケットパーク整備実行委員会の新潟大学大学院生らが6号ポケットパークの整備を国定市長にプレゼン (2010.12.17)
![]()
投稿者 masatosato | カテゴリー:きょうの一言 | トラックバック (0)
2010年12月16日
小路看板と良寛の道
14日の国定三条市長の定例記者会見の続き。小路の魅力に注目し、QRコードも付いた「まちあるきツール小路看板」設置したことを発表した。それに関連して質問したかったが、あんまり古いことで、自分の記憶もあやふやだし、質問も要領を得ない感じになりそうだったので、やめた。平たく言うと「良寛の道の立場はどうなるの?」と聞きたかった。
ちょっと調べても良くわからないが、手元の資料で調べると、三条市HOPE計画(地域住宅計画)が国のなんとかで1988年に策定された。その関連事業のひとつに三条市の良寛ゆかりの地を結んだ「良寛の道」がつくられ、案内看板も設置された。本寺小路などのインターロッキングもその一環で整備された。
三条市HOPE計画のなかに文化の小路ネットワーク計画があり、小路を観光資源に生かそうとなった。三条市の写真グループ、うつそう会が小路の写真を撮って図書館に展示したこともある。小路の名前の由来などもその時に調べたはずで、三条市のホームページにある小路の資料もおそらくそのときに調査されたものがベースになっているのだろう。
20年も昔の話で、さすがに国定市長に質問してもしようがないなとも。会見後、担当職員に真っ先にそのことをただしたが、もちろん覚えていた。今回は「健幸」、スマートウェルネス三条とかのからみなので、それはそれ、これはこれということのようだ。
「良寛の道」で設置した看板やインターロッキングは今も残っているので、それなりに成果はあったが、観光資源としては不発だったと断定していいのではないか。この辺りの外側からの評価は杉井旬市議が詳しい。
国定市長は、佐賀県武雄市の樋渡市長が三条のキーワードが小路ではないかと話していたことをブログに書いているが、今度はぜひ、市外への発信力を高め、できることなら観光にもつなげてほしい。HOPE計画のときと環境が違うのは、何と言ってもインターネットが普及したことだ。QRコードはまさにインターネットを生かした仕掛けだが、ほかにもインターネットを生かしてコストパフォーマンスの高いアピールができるはずだ。
そのひとつで、AR(拡張現実)を生かした取り組みも担当者に提案してみた。それほど詳しいわけでもなく、説明も長くなるので端折るが、ニンテンドーDS用恋愛コミュニケーションゲーム「ラブプラス+」によるARマーカーの旅行客で熱海がにぎわい、ARを使った実物大マジンガーZやエヴァンゲリオンの出現も注目を集めた。国定市長得意のICTジャンルでもあり、新たな小路の観光資源のへの活用法に期待したい。
![]()
投稿者 masatosato | カテゴリー:きょうの一言 | トラックバック (0)
2010年12月15日
地域主導はいずこへ…
国定勇人三条市長は14日に更新した自身のブログ「三条市長日記」で、この日行った定例記者会見について書いた。記者からの一年を振り返っての感想や反省点に関する質問に「準備不足と言ってしまえばそれまでですが、全く頭の中に想定していなかった質問に、しばらく頭が真っ白!!!」。
実は質問しようかどうか迷った。発表項目が少なかったこともあり、気の利いた質問も見つからず、一年を振り返ってを聞こうかどうか迷ったが、ベタだよな~と躊躇していたら、ほかの記者が質問してくれて助かった。もっとも相変わらずストリーミングがうまく行かず、泡を食っていたというのもあるが。
ただ、会見で国定市長が話した地域主導が遅々として進まないという話は、なるほどそうだと思った。「これからは地方の時代」という言葉もこれまで何度なく繰り返された。潮の満ち引きのように寄せては引き。そのたびに振り出しに戻さる。そのたびに地方は指をくわえて「永遠に地方の時代は来ないのでは」と脱力する。今もまた潮が引いた感がある。
21世紀臨調-地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合、通称「せんたく」が2008年3月に発足したころは威勢が良かった。国定市長も会員のひとりだが、シンボリックな存在だった宮崎県の東国原英夫知事が次期知事選の不出馬を表明したのには拍子抜けした。
■21世紀臨調-地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合(せんたく)-
鳥取県知事として地方への税源移譲の論客でもあった片山善博総務相も今は政府側となり、原口一博前総務省が進めたクロスメディア禁止の法制化をさっそく棚上げにし、もともと官僚側の思考だというジャーナリストの声も多い。
国定市長は、地方から国へ「具体に働きかける組織づくりを進めなければ」と話したが、いったん潮が引くと再び盛り上げるのは簡単ではない。大きなムーブメントにするのは難しいだろうが、目の前にあることに一つひとつ取り組んでいくよりほかないのだろう。
また、直接はその答えにならないのだろうが、国定市長が尊敬する佐賀県武雄市の樋渡啓祐市長の2冊目の著書『首長パンチ--最年少市長GABBA奮戦記』をブログで紹介している。
「樋渡市長さんと武雄市政の時系列的な流れがよく分かる内容」で、「樋渡さんとの交流は深いと自負している私にとっても、かなり新鮮」。「どなたが読んでも面白い」と国定市長は太鼓判を押す。
「樋渡市長さん、よく書きましたねぇ。自分のことと重ね合わせながら読み込んでしまいましたが、読み終えて、我に返ると、私には…書けないっ、書けないっ!!!」。国定市長が書けない内容とは?。こういう風に書かれたら、読まずにはいられない。
ツイッターで樋渡市長をフォローしている人は、日本ツイッター学会を立ちあげるは、職員全員にツイッターアカウントを取得させるなど、いい意味で「破格」の市長であることはご存じだろう。年末年始にでもじっくり読んでみたい。
■武雄市長 日本ツイッター学会長 樋渡啓祐 (hiwa1118) on Twitter
ついでにいえば、そろそろ国定市長の著書も読んで見たい気がする。樋渡市長ほどは書けないというなら、『首長ジャブ』とか『首長ボディーブロー』とかでも(笑)。
■首長パンチ: 三条市長日記
あっ、そういえば会見の最後、国定市長の国定市長の締めくくりの言葉は「よいお年を」。…って、はやっ!。
![]()
投稿者 masatosato | カテゴリー:きょうの一言 | トラックバック (0)
2010年12月08日
キヤノン、万代シテイ、ル レクチエ
「新潟市でキャノンのカメラを買い、万代シティでル・レクチェのケーキを食べました」。でたらめ書いてんじゃねーよ!と突っ込んだあなたは正しい。この文章に3つの間違いがある。正しくは「キャノン」が「キヤノン」、「万代シティ」が「万代シテイ」、「ル・レクチェ」が「ル レクチエ」。と書いてもなお、わかりにくいが、カタカナの小文字が、正しくは小文字でない。
小文字を大文字で書く理由は、デザイン上の問題だったり、歴史的仮名遣いだったりといろいろあるようだが、わかっていながらもつい間違えて入力することがある。しかし西洋ナシ「ル レクチエ」の表記はどうなんだろう。
「ル・レクチェ」、「ルレクチェ」など表記はばらばらだったが、ちょっと前に県内産は「ル レクチエ」で表記を統一することになった。最後を「ェ」ではなく、大文字の「エ」としたのは意表をついた。フランス語で「Le Lectier」だから、まあ最後を「チエ」と大文にしたのもわからなくはない。
ただ、問題は「ル レクチエ」の「ル」と「レクチエ」の間のスペースだ。文章にするには、これが悩ましい。「わたしはル レクチエを食べました」とすると、スペースで前後が分断されたような感じでおかしい。ならば「わたしは『ル レクチエ』を食べました」などと括弧でくくる手があるが、括弧はうるさいのであまりつかいたくない。
そもそも表記の統一は、それによるPR効果をを狙ってのことだろう。ところがそのPRの媒体となるメディアが使いづらい表記というのも、ちょっと本末転倒という気がしないでもない…。
![]()
投稿者 masatosato | カテゴリー:きょうの一言 | トラックバック (0)